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Lylica第2章
2003年5月
有羽 作


 彼女にそっけなく逃げられてしまったその翌週の月曜日、俺は図書館の前にあるあのカフェに再び座っていた。
この席からはちょうどエントランスがよく見えた。
今日こそは絶対に彼女に話を聞いてもらおう。
俺は勢い込んでいた。
午後七時を少し過ぎた頃、彼女の姿がドアの向こう側に小さく見えた。
俺は慌ててレジで小銭を払うと、一直線に彼女に向って近付いて行った。
「垰野(たおの)さん、垰野リリカさん!」
俺の声に彼女はビクッと身をすくませたが、振り向いた。
「あのー、この前の土曜日にいきなり声を掛けたものなんですが、あの時はすみませんでした。仕事中に、しかもあんなふうにいきなりじゃ、やっぱり迷惑ですよね。本当にすみませんでした。」
俺は彼女に向ってぺこりと頭を下げた。
「いえ、もういいんです。私もちょっと驚いてしまったから。」
街灯の下で見る彼女は、この前とは少し違って、優しい笑顔を浮かべていた。
「それで、ほんの少しでいいんで時間もらえませんか? あそこのカフェで話しを聞いてもらいたいんですけど・・・あ、これは、決して新手のナンパなんかじゃないですから、神に誓って!」
俺が慌ててそう言うと、彼女はクスリと笑った。
「分かりました。じゃあ、入りましょう。」
彼女のその言葉で俺たちふたりは、さっきまで俺が刑事の張り込みよろしく居座っていたカフェに入った。
俺たちはちょうど周りから死角となっている、奥の背の高い観葉植物の陰のテーブルに彼女は入り口向きに、俺は入り口に背を向け、彼女にだけ顔がみえるように座った。

 席に着くと俺は掛けていた薄い色のサングラスをはずして、テーブルの隅に置いた。
「やっぱり、滝沢秀明さんですよね。最初に声を掛けられたとき、どこかで見たことのある人だなあと思って。でも、そういうのあんまり詳しくないから・・・一緒にいた同僚がきっと滝沢くんだよって教えてくれたんです。」
「なんだ、気がついていたんですね。でも俺、意外と気づかれないんですよ。だから結構平気で出歩いちゃったりして。」
そう言ったところで近づいて来たウェイターに俺はコーヒー、彼女はカフェ・オレを注文した。
あらためて見る彼女はセミロングのウルフカットで、最初に見かけたときに掛けていた縁なしの眼鏡を今日もかけていた。
多分、俺より二つくらい年上のはずだが、笑うと目元が幼く見えて可愛らしかった。
俺は手に持っていた例の詩集をテーブルの上に置いた。
すると、彼女は不思議そうにその本を手にとった。
「この本、どこで手に入れたんですか? 自主出版だし、出版したのももう何年も前のことなんですよ。」
そういって頁をパラパラとめくった。
「偶然、ロケ先の近くの古本屋で見つけたんですよ。しかも俺、古本屋なんて入ったの初めてだった。」
「ふーん、そうなんですか。もう、この本のことは忘れようとしていたのに・・・。」
独り言を言っているみたいに彼女はそう呟いた。
「あのう、それで折り入ってお願いがあるんですけれど・・・今、俺、自分で作詞作曲しているんですけれど、どうもなかなかうまくいかなくって。できれば今後、アドバイスしてもらいたいなと・・・駄目ですか? ご迷惑なのは分かっているんですけれど、俺も垰野さんみたいに自分の言葉で表現できたらいいなって。俺、あなたの表現する世界がとっても好きなんです!」
なんとか彼女の了解を取り付けようと俺は必死だった。
彼女はかなり悩んでいる様子だった。
「そこまでいってもらえるのは嬉しいけれど、もう私、何年も詩なんて書いていないし、プロのもの書きでもないですし・・・私にそんな大切な役割が務まるのかしら。しばらく考えさせてもらっていいですか?」
「わかりました。じゃあ俺のメール・アドレス教えます。必ずよい返事くださいね。なるべくご迷惑にならないようにしますから。俺、よい返事をもらえるまであきらめませんから!」
思わずそう言って、彼女の苦笑をかってしまった。
テーブルの上にあった紙ナプキンの上に、彼女から借りたペンで俺は自宅のパソコンのアドレスを書いて彼女に渡した。
彼女はそれを自分の手帳に挟んでバックにしまった。
その後コーヒーを飲みながら15分くらい俺の仕事の話やら、休日の過ごし方やら、たわいのない話を続けた。
テーブルの上にある詩集の話しに彼女はあまり触れたくないようだった。
それを察知して俺も聞きたい気持ちをこらえていた。
初対面のぎこちないやりとり・・・その時の俺はまるでスプーンがうまく使えない子供のようだった。
そして彼女もまた、俺に向って目には見えない大きな壁を張り巡らしていた。





 あの日彼にあんな依頼をされたけれど、私はずっと気が重かった。
間近で見る彼は驚くくらいに綺麗だった。
それは単に容姿の美しさだけではなかった。
多分、私より少しだけ年下だと思われるその青年は、なんの迷いもない真っ直ぐな眼差しで私を見た。
そして、驚くことに私の詩集を手にしていた。
すぐに断るべきだったと、ずっと後悔していた。
でも、あんなに真剣な目をみたら、何も言えなくなってしまった。
純粋で濁りのない瞳。
龍一と同じ瞳だと思った。

 一週間以内に返事をするといってから、今日で5日経ってしまった。
いつものように朝、通勤の電車に乗り込んだ。
この満員電車に乗り込んだ人は皆疲れた顔をして、人と同じであるということの平穏に慣らされてしまっている。
自分はどうなんだろう? 
あきらめてしまっている訳ではないけれど、疲れてしまっている。
今の仕事に特別な不満を抱いている訳ではない。
でも、そうかといって生きがいを感じているほどでもない。
ただ成り行きのように漫然と今の職についてしまったのかもしれない。
子供の頃から本が大好きだった。
現実の世界よりも作り物のお話しの中に魅力を感じていた。
空想の世界では思いつくことは何もかもが可能だった。
子供の頃、したいことはいっっぱいあった。
行きたい所も、成りたいものもいっぱいあった。
いつからだろう・・・どこへでもいけるはずの私は、どこにも行けなくなっていた。
そんなことを考えながら電車に揺られていたせいか段々気分が悪くなってきた。
我慢できなくなり途中の駅で降りてしまった。仕事場に電話して、その日は休みにしてしまった。
“ずる休み”。
こんなこと初めてかもしれない。
でも不思議に罪悪感はなかった。
反対方向の電車に乗り込んだが、帰るわけでもなく新宿駅で降りると、駅ビル、デパート・・・街中をあてもなくぶらぶらと徘徊した。
平日の昼の街は、私がしっくりとはまる場所などどこにもなかった。
緑の森の木々に誘われるように、気がつくと御苑の中にいた。
桜の蕾はまだ固く、白や赤や桃色の梅が甘い香りを漂わせて、少しだけほっとした空間がそこには存在した。
ここには日本庭園があり、その中にある池の濁った水面をぼーっと見つめていると、背後で‘コトリッ’という音がして思わず振り返った。
振り返るとそこには椿の木があった。
寒椿の大きな木から最後の花が落ちた音だった。
‘落ちる花のあるうちは、この木も椿でいられる・・・’そんな言葉が頭をよぎった。
やっぱり私は、彼の依頼を受けるべきなのだろうか?




 部屋に戻るとすぐにパソコンを立ち上げ、受信メールをチェックした。
あれから日課になってしまった。
でも、彼女からの返事はいっこうに来なかった。
‘忘れているんだろうか?’
そんな日が6日経った頃の深夜12時過ぎに、彼女からのメールは届いた。

   大変遅くなり、申し訳ありません。
   あなたの申し出、承知しました。
   でもここ何年、詩を書いていないし・・・
   今の私でお役に立てるか、正直不安です。
   とりあえず、お忙しいでしょうから
   何か話したいことがあれば、このメール・アドレスに連絡してください。
   それでは、よいものが作れることを願っています。
                                  垰野 リリカ

‘やった!’俺は心の中でひとり歓喜した。
これで“鬼に金棒”、なんだかよいものができそうな気がしてきた。
でも、いきなりつくったものを見てもらっても、果たしてそれでいいんだろうか?
俺は彼女の詩を書く視点、心象風景に興味があった。
俺のことももっとよく知ってもらわなければいけない。
‘そうだ、明日からできる限り、何でもよいから彼女にメールを送ろう。’
そう考えてその晩はベッドに入った。
なんだか目が冴えてなかなか眠れない。
仕方がないのでまた、あの詩集を開いていた。

あなたにあげられるもの
ほら ここにあるでしょう

あなたの中の私
私の中のあなた

ジャズの指先に触れ
妊る月を抱きしめ
太陽からぽつり
おちてくる夜を
待つの

かなりの時が過ぎた。
気がつくと、一睡もできずに朝を迎えていた。

 こんなに誰かのことを考えたのは久しぶりだった。
こういう仕事をしているから、親しい友人以外にはあまり信じてもらえないが、俺はかなりの人見知りだ。
特に大勢の中で、自分をうまくアピールするってことにかけては全然自信がない。
ただ偶然にも、人より少し目立つ容姿が幸いしてか、周りは俺に注目してくれる。
でもそれに甘んじていてはいけないってことも、俺は身にしみて知っていた。
カーテンを開け窓から外を覗くと、まだ街は白く靄のかかった静寂の中にあった。
こんなときだ、一日の中で一番自分らしく素直な気持ちでいられるのは。
そして、この貴重な時間の中で俺は曲を作ったり、詩を考えたりする。
・・・それは俺の仕事だから?
いや、違うな。
ただ単純に楽しいから続けているなんて生易しいものでもない。
けれど、仕事だからなんていいたくなかった。
きっとずうっとその理由を探しているのかもしれない。
答えが出ていないうちにやめることなんてできない。

 俺は又彼女のことを考えていた。
‘ここ何年、詩を書いていないし・・・’というメールの文章を思い返していた。
不思議だった。
なんで、言葉を紡ぐことをやめてしまったんだろう?
彼女には答えが見つかってしまったのだろうか。
詩を作ることよりも、もっと重要な何かを見つけてしまったんだろうか?
俺は眠い目をこすりながら、バスルームの扉を開け、シャワーの栓をひねった。
熱いシャワーでとりあえず、もやもやした疑問を頭の中から追い出していた。




 滝沢秀明・・・彼の真剣で真っ直ぐな眼差しをあれから何度も思い出していた。
でもそれはいつの間にか、龍一の眼差しと重なり合って、私を思い出の中に引きずりこむだけのきっかけに過ぎなかった。
そう、私は相変わらず、前には進めずにいた。

 三年前のあの夏の日、ずうっと青い空にたなびくけむりの行方を見ていた。
空をずうっと見ていた。
本当は黒い雲が広がって、にわか雨になるのを願っていたのかもしれない。
そして今、にわか雨が降りそうなのに、臆病な私は部屋の中に逃げ込もうとしていた。 

 目が覚めるとまだ朝の5時だった。
早朝の静寂な空気は人を素直な気持ちにもするが、それと同時に不安な気持ちにもさせる。
一人暮らしをはじめたばかりのこの部屋は、殺風景というのか、物がなくがらんとしていた。
私の心の中と同じだと思ったら、ひとりでに苦笑いしてしまった。
彼との想い出をできるだけ捨ててしまったら、何もなくなってしまった。
たった一つ、古いグランドピアノが、捨てあぐねた末に似つかわしくもないこの狭いマンションのリビングにぽつんと置かれていた。
それは龍一が彼のお母さんから譲り受けたものだった。
彼のお母さんは昔、青山でジャズ喫茶を開いていてその頃の名残で、彼の部屋には古いジャズのレコードやら、このピアノがところ狭しと並んでいた。
そしてこのピアノで、なんと言う曲かは分からないがよくジャズのフレーズを弾いていた。
もう二度と触れる事はないであろう鍵盤。
可哀想なこのピアノは既にこの世からいなくなってしまった主人を懐かしんでいるのかもしれない。
もしも物に心があるのならば、過去の想い出をただ黙って見つめていればよい。
でも、私にはそれは許されない。
人それぞれペースは違うけれど、新しい人に会い、新しい思いを抱き、新しい自分を見つけていく。
私は新しい自分を見つけるどころか、過去の思いと折り合いがつけられずにいる。
そしてそんな自分をごまかして、今日も無理やり日常の扉を開けていつものように満員電車に揺られる為に、ベッドからとびおきる。
滝沢くんもきっとそのうち私に失望するかもしれない。
あの詩集を書いていた時の私はもう龍一と一緒に死んでしまったから。
その時が来たら素直に謝るしかない。
でも、ひょっとしたらにわか雨が降るだろうか?
そしたら今度こそ傘はささずに外に出て行きたい。
私は部屋の窓を開け放し、朝焼けの街の空気を感じた。
少しだけ湿った風が吹いていた。
今日は雨が降るのかもしれない。
なぜかそんな予感がちょっぴり私を勇気づけてくれそうだった。



つづく
                           

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