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第3章
2004年1月
有羽 作


煙草をきらしてしまい、店の外に出た。
通りの向こう側にある自動販売機を見つけ、俺はしばらく外で一服することにした。
数十分経った頃振り向くと、店の前のガードレールに誰かが座っていた。
きっと飲みすぎて外の空気でも吸いに来たんだろう。
でも、なんだかこっちを見ているような様子に気が付いて、よく見ると、それは“佐伯真珠(まじゅ)”だった。
俺は通りを渡り、彼女に近づいた。

この前のNGの理由が気になって、彼女に聞いてみた。
彼女はあまり言いたくなさそうに見えた。
‘前の日に飼い猫が死んだからかな?’と言ったがとっさに嘘だと分かった。
まあ、本当のことなんて自分自信だって分かっているのか定かではない。
俺自信がそうであったように。

それから、しばらくして飲み会はお開きになった。
もうとっくに12時を過ぎかなりの時間だった。

帰る方角ごとにタクシーに乗り込むことになった。
マネージャーさんとも別れて、俺と数人が同じタクシーに乗りこんだ。
その中には、真珠(まじゅ)もいた。彼女は案の定、飲み過ぎたみたいでぐったりしていた。
ひとり降り、ふたり降り、俺と彼女だけを車内に残して、タクシーは深夜の人気のない道路を走った。
真珠(まじゅ)の住んでいるマンションの近くまで来た。
彼女はひとりで降りて歩き始めたが、足元が少しふらついている。
放っておくこともできず、とりあえず俺も一緒にそこで降りることにした。

「大丈夫。ひとりで帰れるのに…。」
真珠(まじゅ)はそんなことを呟きながら、駐車場の中をふらふらと歩いていった。
後ろからついて行く俺は、転ぶんじゃないかとヒヤヒヤしながら彼女を見ていた。
「あそこ!あたしの住んでるマンション。」
前方の小さなマンションを指さすと、彼女は空を見上げながらその場に座り込んでしまった。
「雨は降ってないのに、今日は月も見えないんだ…。」
そう言って、いつまでも立とうともしないで夜空を見上げていた。

俺も隣に真似をして座ってみた。
車も数台しか止まっていなかったので、思っていたよりも視界が広かった。
目を凝らしてよく見ると、星がいくつか見えた。
とても新鮮で不思議な気がして、ちょっぴりおかしかった。
こんな深夜に、こんな場所で、しかも地ベタに座り込んで女の子と空を見たことなんてなかった。

「きみって、酔っ払うといつもこんななの?」
「変かなあ?目が覚めると道端に寝ていたとか…何回かあったかも…。あ、あと高校生と間違われて渋谷で深夜、友達と数人で補導されそうになったこともあった。」
あんまりあっけらかんと言うので笑ってしまった。
「滝沢君は、そんなことないの?」
「ないなー、やってみたい気もするけどね。」
「そうだよね。有名税ってやつ?大変なことになっちゃうものね。」
真珠(まじゅ)はまた黙って夜空を見ていた。
「きみだってこのドラマがあたれば、もっと仕事も増えて、こんなことできなくなるかもよ?そうなるといいね。」
「それって、いいことなのかなあ?わかんないんだよね。」
彼女は何かを考えているみたいに、再び黙ってしまった。

「さあ、もう立って。俺もタクシー拾って帰るからさ。」
俺はそう言うと、真珠(まじゅ)の腕を掴んで立ちあがった。






なんとなくまだ酔いが醒めてないみたいで、地に足がつかない感じだ。
家の近くで降りたのはいいが、空を見たいと思っただけなのに、地ベタに座り込んでいた。
滝沢君は私が心配なのか一緒に降りた。
そして、私の行動がおかしかったのか、付き合って隣でおんなじように空を見ていた。

私は空を見るのが好きだった。
淋しい時、嬉しいとき、いつも空を見上げた。
「きみだってこのドラマがあたれば、もっと仕事も増えて、こんなことできなくなるかもよ?」
そんな彼の言葉が私をあの雨の日に引き戻していた。
空を見て、ちょうど今時分の雨の日、辛かった時のことを思いだしていた。

そうあの日、街は雨だった。

びしょぬれのの踏み切りを、雨を切るように電車が走って行く。
その傍らに忘れ去られたような電話ボックスがあった。
お金も無く、携帯電話も通話が止まってしまった。
仕事も見つからない。
オーディションもうまく行かなかった。またきっと駄目に違いない。
もう八方塞がりだ。何もかもがうまく行かない。

‘お前なんて、新宿の道路脇に捨てられているゴミと一緒だ。なんの役にもたたないよ。’

演出家の西崎さんに、そう罵られた言葉を思いだしていた。
本当にそのとおりかも知れない。
もう、生きている値打ちも、気力もなくそうとしていた。

山梨の実家を出てから、気がつくと一年半が過ぎようとしていた。
役者の仕事が軌道にのるまでは、電話もするまいと心に決めていた。
でもどうしても、母の声が聞きたかった。
今の気分では会話なんて出来そうにも無いけれど、ただ声が聞きたかった。
なけなしの小銭を取りだすと、少し湿った受話器を持ち上げ、錆びついた投入口から十円玉を一枚落とした。
“カチャッ”という音がして私は大きく息を吐いた。
少し擦りへっているようなそのボタンを注意深く押した。
“トゥルルルー、トゥルルルー…”呼び出し音が鳴る度に後悔の念が胸をよぎった。
5回目のコールの後、懐かしい声は現れた。

‘はい。佐伯です。’母の声だった。
‘・・・・・・・’

辛かったけれど、私は無言を押し通した。
おかあさん、ごめんなさい。
そして、受話器を置いて立ち去ろうと、耳から少し離した瞬間、再び母の声が私を呼び止めた。

‘真珠(まじゅ)なんでしょ…。生きてさえいれば、それでいいから…。’

母は受話器の向こう側でか細い声でただそう言った。
その言葉を聞いたとたん、私の胸の中に暖かいものがこみあげて来た。
冷たかったその場所に、ゆるゆると暖かい血が流れるのを感じた。
そして、無言のまま受話器を置いた。

雨は再び強さを増し、ザーザーと音をたてながら、道路を打ちつけていた。
私は傘をさすことも忘れたように、びしょぬれで電話ボックスの外に立ちつくした。
焦燥感も挫折感も涙も…みんな雨に流してしまいたかった。
道路脇には清掃車が置き忘れていったゴミ袋が、カラスにつつかれたままの無残な姿で雨に打たれていた。
‘わたしは、ゴミなんかじゃない。’
独り言のように、うわごとのように、そう何度も呟いていた。

あの頃より、夢には一歩近づいたけれど…。
“有名な俳優になること”が私の目的ではない。

空を黙ってみている私を滝沢くんはほおって置いてくれた。
なんでだろう、滝沢くんといるととても気持ちが楽になれた。
彼は私の勝手な行動を面白がっているようにも見えた。
「さあ、もう立って。」
彼は私が立ち上がったのを確認すると、
「俺もタクシー拾って帰るからさ。また明日、現場で…。」
そう言い残して、大通りに向かう方角に去っていった。

翌朝、目が醒めると救い様のないくらい気分は最悪だった。
でも、記憶ははっきりしていて、それが最悪の原因のひとつになっていた。

昨日と同様、朝からスタジオに入った。
修史とはお互いに目を合わせることもなかった。
幸い、一緒になるシーンもなかった。

滝沢君にはきっと、おかしなやつだと思われているかもしれないけれど、あの晩を境によく話しをするようになった。
彼は思っていたよりも凄く大人で、画面で受ける印象とは少し違う感じだ。
まあ、女の子でも負けそうなくらいの完璧なビジュアルと、明るさはそのまんまだけれど…。
彼の暖かいひだまりのような笑顔には、他人を幸せにできる不思議な力がある。
私なんかとは違って、彼は神様に選ばれた人間なのかもしれない。
こんな近くにいて、親しく口をきくようになったけれど、やっぱりそう思ってしまう。
私なんかとは別世界で生きている人。彼は太陽のような人。
そして、私は三日月。いつも何かが欠けている三日月みたいだ。

その日も出番が終わって、楽屋の入り口で滝沢君とすれ違った。
「お疲れ様! 俺、まだまだこれからいっぱい撮りが残ってるんだ。」
「頑張ってね。でも、私も今日から舞台稽古があるの。じゃあ、お先に…。」
そう言って楽屋に入ると鏡の前に週刊誌が置いてあった。
なにげなくパラパラと頁をめくると、気になる記事が目に飛び込んできた。
それはこの夏にスタートしたばかりの、各局のドラマの視聴率と批判の載った記事だった。
私達のドラマは思ったよりも苦戦しているようで、主演の滝沢君に対する批判も辛辣なものだった。
彼がさっきまでこの記事を見ていたのかと思うと、私の胸はキリキリと痛んだ。
そういえば、すれ違った彼の表情がこころなしか疲れていたように思えた。





つづく



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