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第2章
2004年1月
有羽 作


今日から一年振りのドラマの撮影がスタートする。
最近、演じることの楽しさと、それに伴う苦しみがやっと実感できるようになった。

演技をすることも、歌うこともそうだけれど、カメラがまわっている間、スポットライトに照らされている時間の流れの中で一瞬だけ意識していない自分がいる瞬間がある。
時には苦し紛れの時もある。
役や歌詞の中の心情を頭の中に必死に思い浮かべ、常にもう一人の自分が意識の向こう側にいて、“こういう表情をしろ”とか“次はこう動け”とか、どこからか指令を下しているんだ。
最近まではそれでいいんだと思っていた。
だが、俺は気づいてしまった。

機械で送られてくる作為的な風じゃなく、たとえ窓のない空間でも、本物の風が吹いて来る瞬間があるってことを。
俺の意識は別の誰かにのっとられている。
大袈裟かも知れないが、神が降りてきて、意のままに操っているのかもしれない。
気持ちは高揚して、カメラがストップする瞬間、ライトがおちた後、切ない気分が訪れる。
まるで、誰かに恋している気分だ。
きっと、一生ぬけ出せないんだろうな。

「滝沢くん、よろしく!」、「タッキー、頑張ろうな!」
共演者やスタッフにそう声を掛けられ、いつものように俺はメイク室に向かった。
メイク室に入ろうとした瞬間、中から出てきた女の子とぶつかりそうになった。
彼女がバランスを崩して倒れそうになったので、とっさに両手で彼女の肩を支えていた。
「大丈夫?」
「あっ、すみません。大丈夫です。」
一瞬、視線が合ってから彼女はそう答えた。
ちょっと呼吸が苦しそうに見えたが彼女は行ってしまった。
膝のぬけたジーンズにストレートのロングヘアーの彼女は、少年のような勝ち気な瞳をしていた。
なんだか、様子が気になって、その頼りなげな後ろ姿を俺は数秒間見送った。
それが、俺“滝沢 秀明”と“佐伯 真珠(まじゅ)”との最初の会話だった。

ロケ現場で、共演者の輪の中に彼女の姿を見つけた。
俺は顔合わせの時に紹介された彼女のことを思いだしていた。
そうだ、今回一人だけいた無名の新人女優が彼女だった。
確か変わった名前だったっけ…“真珠”って書いて“マジュ”とか言ってたな。
彼女にそっと近づき話し掛けた。
「さっきは本当に大丈夫だった?」
「すみません。もう全然大丈夫です。」
彼女は少しばつの悪そうな顔をした。
「あれえ、もう真珠(まじゅ)ちゃん、タッキーと話してんの? ずるーい、俺もタッキーとお話ししたーい!」
そう言って、横から共演者のひとりが首を突っ込んできた。
その言葉を聞いていた数人に笑いが起こり、現場の空気が少しなごんだ。
俺は彼女をちらっと見た。
彼女は安堵した表情に変わっていた。

ドラマの撮影も順調に進んでいった。
眠る暇も無いくらいのハードなスケジュールで現場の空気は少しだけ張りつめていた。

そんなある日、更に現場の空気を重くするような出来事が起きた。
そう…彼女…佐伯 真珠(まじゅ)が笑うシーンが思うように進まず、撮影がストップしてしまった。
よくいう、“NG連発”というアクシンデントだ。
よく“涙がでない”というのは聞くけれど、“笑えない女優”はあまり見たことがなかった。
そんな訳でその後に撮るはずだったシーンを繰り上げての撮影となった。

「お疲れ様です!」
深夜のスタジオにスタッフたちの声が飛びかっている。
俺は佐伯 真珠(まじゅ)のことが気に掛かっていた。
でも、特に声を掛けたわけでもなく、ましてやアドバイスをしたわけでもなかった。
そして、ロビーのソファに腰かけていた監督に彼女のことをそれとなく聞いてみた。

「佐伯さんのシーン、うまくいったんですか?」
「ああ、なんとか芝居してもらったよ。本当に笑えないのなら、仕方ない。笑っているように見える演技をしてもらうしかないだろ。彼女一人のために、待っていられるほどこの世界は甘くはない。忙しいタッキーにも迷惑かけらんないしな。」
監督の言い方は優しかったけれど、現実の厳しさをまざまざと思い知らされた。
「俺、以前に泣けなかったことがあって、今日の彼女を見ていたら、なんだか人ごとじゃなかったな。きっと、彼女も自分の中で昇華しきれていない何かを抱えているんだって思ったんです。」
監督は少し微笑むとこう言った。
「タッキーは優しいね。でも、心にそんな何かを抱えているからこそ、彼女には未知な魅力があるのかもしれないね。完璧な人間なんて誰が見たって面白くないんだし。今日は迷惑掛けちゃって申し訳無い。明日もよろしくね!お疲れ様!」
彼はそう言うと重い足取りで玄関に向かう廊下の向こうに消えて行った。

“泣けなかった自分”がいた。思いだしてしまったあの時のことを…。

それは思いもかけないことだった。
“涙が出ない”そう思った瞬間、激しい焦燥感にみまわれた。
でも、ここで何回もカメラをストップさせるわけにはいかず、俺は必死で演技した。
そう、それはいわゆる“熱演”というもので、決して賞賛に値するものではなかった。

今にして思えば当たり前のことだったのかもしれない。
幼いころから、‘男は親の死に目にあったとき以外は泣くもんじゃない’と言われ続けて俺は育った。
十代のうちから一人暮らしをして、大人に混ざってこの世界で仕事を続けてきた。
背伸びしているつもりはない、つっぱっているつもりはないと思っていた。
でも、心の奥の一番大切なものを守っていくには、素直さやナイーブさだけじゃやっていられなかった。
そして、心に頑丈な鎧を着込んで…‘人前でなんて泣くまい’そうやって生きてきた。
でもさ、それもまた悪いことじゃないんだよ。
俺が俺として成立する為には、大切なものを守る為には仕方ないことだったんだって、受け入れてきた。
それから、すべては時間と集中力が解決してくれた。

「お前の知らない部分をみっちゃったみたいで、ドキドキしたよ。」
テレビ・ドラマの中で泣いている俺を見た友人はこう言った。

梅雨の夜空は星も月も見えなかった。
ただ…雲のきれ間に少しだけ晴れた夜空が見えた。
そうさ、雨だっていつかは上がる。
今ではそう言える自分が、少しは大人になったように思えた夜だった。




なんだか緊張しているせいか、このところあまり体調がおもわしくない。
私は生まれつき、胸に爆弾を抱えていた。
それはいつ爆発してもおかしくはない状態だった。
でも、もう21年ものあいだ付き合ってきたのだもの、きっとまだ大丈夫…でも、それは何の根拠もない自信だった。
私は昨日6月25日で、21歳の誕生日を迎えた。
あと何回こうやって芝居をしながら誕生日を迎えるだろう?
そう思うと小さなことはなにかもが馬鹿らしく、どうでもよい事のように思えてくる。
たとえ短い人生になったとしても、芝居と出会ったおかげで何人もの人生を生きられた気がしていた。
そう、弱音を吐くのはまだ早い。
まだまだ頑張らなきゃいけない。

そんなふうに決心したばかりだったのに…。
足元がふらついたところを誰かに支えられてしまった。
その相手が滝沢君だったって、すれちがった後に気が付いて少し焦った。
たぶん、大丈夫。
うまくごまかしきれた。
それよりも、問題は例のNGだ。
舞台の稽古でも同じようなNGをだしてしまったことがあった。
今回の原因ははっきりしていた。
でも、突き詰めて行くと、今すぐどうこうできるものではなかった。

7月も半ばを告げようとしていたある日、ロケも予定どおり終わり、出演者・スタッフで飲み会が開かれた。
大分、皆とも打ち解けてきていたし、飲み会はいい雰囲気で始まった。
二時間くらい経って、皆に酔いが回ってきた頃、またいつもの癖で共演者の一人と言い争いになってしまった。
最初は隅の席でおとなしく飲んでいた。
だって、皆と一緒にはしゃぐ気分ではなかったから…。
そんな時、共演者の一人が声を掛けて来た。
最近売出し中で、少しは名前が売れて来た俳優、“坂上 修史”だ。

ここのところ忙しくて休んでいるが、月に2回ほどだけれど私は河口湖にあるアクティング・セミナーに通っていた。
講師はニューヨークにある“アクターズ・スタジオ”で唯一の東洋人の会員と言われている“コウ・タオカ”氏で、多分70歳ぐらいのはずだが、彼はとてもエネルギーに満ち溢れていた人だった。
私のことを‘ミス・パール’と親しみをこめて呼んでくれ、いつも的確なアドバイスをくれた。
脅迫観念にも近い方法で自分の内面を探っていた私にとって、リラックスして自分を解放する方法を教えてくれた氏は、私が最も信頼できる存在だ。
そのセミナーには、プロもアマチュアも年齢も色々な人たちが通っていて、“坂上 修史”もその中の一人だった。
ただ、数回口をきいたことがあるくらいの面識しかなかった。

「何を飲んでるの? あんまり飲んでないんじゃないの?」
私の隣にいたスタッフさんがトイレにたった隙を見計らったように、修史は私の横に座った。
「ああ、いいの。私のことは放っておいて。」
私は彼が嫌いだった。
よほど自分のルックスと頭の良さに自信があるのか、とても理屈っぽく、女の子ならみんな自分に気があるというような態度も鼻に付いた。
「でも、驚いたよ。真珠(まじゅ)ちゃんと一緒に仕事するとは思わなかったな。この後、ふたりで飲み直さない?多分、そろそろお開きになるだろうし…。それに今度映画に出るんだけれど、そのことで君に聞いてもらいたいこともあるし、いいよね。」
私が曖昧に適当な返事をしているのをいいことに、修史はどんどん饒舌になっていくと、しまいには共演者達の演技の批判を始める始末だった。
‘最低…。’たとえどんなに名優と言われようと、役者の自覚がある者ならば、決して他人の演技の批判などしないものだ。彼は役者の風上にもおけない奴だった。

しばらくは聞いていないふりをして我慢していたが、彼の話しは終わらなかった。
私にはもう既に我慢の限界を超えていた。
そしてとっさに立ちあがると、もっていたグラスの中のワインを修史の頭の上からかけてしまった。
「信じられないことするな! ちょっと可愛いと思って声をかけてやったのに、どうしてこんな事するんだよ!」
共演者、スタッフ全員が話しを止めて、皆驚いた顔をして私達の様子を伺っていた。
「教えて欲しい?信じられないのはあんたのほうだわ。教えてもらわなきゃ分からないようじゃ…何も言いたくないわ!あんたは最低だってことよ!」
そう彼に言い放つと、私を睨みつけた修史は上着を掴み、凄い形相でその店を出て行った。
スタッフの一人が慌てて彼の後を追うように店を出て行った。
もう、最悪の夜だった。
気が付くと私は凄いピッチで飲み始め、隣に座った共演者のとりなす言葉も耳に入らなかった。

本当はあまり飲めるほうではない。
案の定、気分が悪くなりしばらく外の空気を吸おうと店の外に出た。
もう結構遅い時間で、通りには人影も見えなかった。
店の前のガードレールに腰かけて、少し頭を冷やすことにした。夜風の冷たさが心地よかった。

通りの向こうにある煙草の自動販売器の灯りがこうこうと光っていた。
気が付くとその影に誰か寄りかかって煙草を吸っている。
暗闇に白い煙がぼんやりと漂っているのが見えた。
誰だろうと目を凝らしてみていると、向こうも私に気づいたみたいでゆっくりとこちらに近づいてきた。
その人影は滝沢君だった。

「どうしたの?気分でも悪いの?」
さっきまでの私の様子をみていたはずなのに、滝沢くんはそのことには一言も触れなかった。
「あんまり強くないのに飲み過ぎちゃった。でも、外の空気を吸ったらちょっと酔いが覚めたみたい。」
「そう、無理するなよ。まだ撮影も残ってるし、皆君には期待しているしね。」
「ありがとう、嘘でもうれしいな。ドラマの仕事初めてだから、本当は不安で一杯なんだ。この前みたいに又、NG連発して皆に迷惑かけたらどうしよう…とか。寝られない日もあったりして。」
滝沢君は少しだけ微笑むと、又煙草に火をつけた。
暗い夜のとばりの中で、一瞬、炎がストロボの様に彼の顔を明るく照らした。
そして、見慣れていたつもりだったが、その端正な横顔にあらためて見とれてしまいそうになった。
「俺も同じ様なことが以前あったな。まあ、俺の場合は泣けなかったんだけれどね。で、あの時は何か理由でもあったの?」
私は一瞬口篭った。

「何でだろう…前の日に飼っていた猫が死んじゃったから、笑うような心境じゃなかったのかな。」
「ふーん、そうか。まあ、そんなこともあるよ。」
私の嘘を信じたかどうかはわからないけれど、彼はそれ以上は聞かなかった。
そして、店に戻ろうと言って、私達は再び飲み会の輪の中に戻っていった。





つづく



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