[back]

願い・・・ 第8章
whereabouts
2003年2月
有羽 作


 正直言って、ショックだった。
翼にあんなふうに言ったけれど、気まずさからゆうきとの競演を嫌がっていた俺はなんて愚かだったのだろう。
彼女の舞台は背中に電流が走るくらい素晴らしかった。
ゆうきと一緒に生活を重ねてきて、誰よりも彼女のことを分かっていると思っていたのは間違いだった。
ゆうきが去っていった理由―きっと俺には計り知れない何かが彼女を突き動かしたのかもしれない。
そして、俺の知らない6年もの間にゆうきは何かをすり減らし、それと引き換えに手に入れたものがあるはずだ。
そのことを思い知らされた。
あれから、一週間くらい後にマネージャーからゆうきが映画の出演をOKしたことを聞かされた。
こうなったら、腹を括るしかないな。
まず逢ったら、ゆうきになんて声を掛けよう?気がつくとそんなことばかり考えていた。

 そんなある日、翼が一緒に出掛けようと誘ってきた。
なんでも、ゆうきが近じかイギリスへ戻るらしい。
翼はどうやら俺に内緒で、何回かゆうきに会いに行ったようだった。
「あのさ、映画がクランク・インする前に会っておいた方がいいよ。そうでないと、お前のことだから、撮影中きっと一言もゆうきと話せずに終わっちゃうよ。それからさ・・・とっても言いにくいんだけれど、今から俺の言うことは全て真実だから、落ち着いて聞いてくれないか・・・あのさ、実はゆうき、母親になっていたんだ。今、五歳になる子供がいるんだ。」
その言葉に俺は呆然としていた。
「それって、結婚しているってこと?相手はどんなやつ?」
「俺も初めて聞いたときは、かなり動揺したよ。でも、未婚の母なんだって。今は息子と二人で暮らしていて、子供のためだったら何でもできるって言っていた。男はいないみたい。」
俺は翼の言葉に‘ふーん。’と相槌をとったけれど、内心かなり落ち込んだ。

俺を置いて出て行ったゆうきが他の男の子供を産んでいたなんて・・・考えたくもない。
でも事実だ。
俺はしばらくしてなぜだか笑いが込み上げてきた。
あいつを忘れたいがために他の女に手当たり次第に声を掛けて、その結果、相手も自分も傷つけて生きていたんだ。
もう笑うしかない。
馬鹿な自分が滑稽に思えた。
「滝沢・・・大丈夫?やっぱり、内緒にしておいた方が良かったかな。でも、どっちみち判ってしまうことだもの。」
翼は心配そうな顔になった。
「ありがとう。残酷だけれど真実だもの受け入れるよ。ゆうきと逢わせてくれよ。」
それから俺たちふたりは俺の車で出掛けた。
ゆうきの滞在しているホテルのロビーで彼女を待っていた。
翼がフロントからゆうきの部屋に連絡してもらい、数分後に彼女は俺たちの前に現れた。
「なんて言ったらいいのか分からないけれど、元気そうで安心した。まさかこんな風に逢えるなんて思ってもみなかった。」
彼女は俺のことを直視できずにいるみたいだった。
「俺のほうこそ、翼から色々聞いて驚いたよ。子供がいるんだってね。それから、映画のことも・・・。でも、よかったよ。ゆうきがヒロインだったらきっといい作品になる。」
俺は精一杯に平静を装った。
6年ぶりに面と向かって話すゆうきは長く伸びたロングヘアーと女性らしい服装以外あの頃と全く変わっていない可憐な容姿だったが、全然違って見えることを俺はひしひしと感じ取っていた。
一人で、ましてや誰一人知る人のいない異国の地で、生きてきた月日が彼女を頼りなげな少女から自立した大人の女性に変えていた。
眩しくて直視できないでいたのはむしろ俺のほうだったかもしれない。
「ママー!行って来るね!」
背中で突然、元気な声が聞こえた。
その声の主はゆうきに駆け寄ると、彼女に飛びつき頬にキスをした。
「シュウ、気をつけていってらっしゃい!冷たいものばかり食べちゃだめよ。じゃあシルヴィー、よろしくね。」
そう言ってゆうきは俺が見たこともない母親の顔で、その小さい男の子にキスした。
その小さい男の子は俺と翼の存在に気づくと、翼に駆け寄って何か言おうと飛びついた。
翼が中腰になると彼は翼の耳元でなにやらささやいていた。
「そうかもね!」
翼がそう答えるとふたりは顔を見合わせてニコニコ微笑合っていた。

「翼くん、またゲームしようね!ママ、行ってきます!」

彼はそう叫んでイギリス人の一団の中に飛び込んで行った。
「シュウ、翼くんと遊んだのが凄く楽しかったみたい。周りはいつも女の子ばかりだから・・・。ねえ、さっき何を耳打ちされたの?」
ゆうきがそう聞くと翼は得意げに答えた。
「だめだよ。いくら母親だからって教えられない。ふたりの秘密だものね。」
「また、なにか良からぬことでしょ。でも、五歳の子と波長が合うなんてね・・・。」
そう言ってゆうきは楽しそうに笑った。
俺は何だか一瞬、6年前にタイムスリップしたような錯覚に陥っていた。
でも、確実に違うのは彼女は母親になっていて、俺にはたとえそれが偽りの関係だったとしても・・・彼女とは別の女性の影があるということだった。
何を話していいやら分からない俺の横で翼が助け舟を出すように話し始めた。
「あれから6年も経つんだよね。17才だったゆうきも今じゃ23才だもの。可愛いなって思っていたあの頃から比べると大人になっているはずだよね。おまけにもう子供がいるんだもの。」
「でもね。10代で母親になったでしょ。最初は子供が子供を産んじゃったみたいで大変だったんだ。でも、あの子がいたから私は成長できたのかもね。それに男の子はどんなに小さくても男の子なのよね。シュウはあれでも必死で私を守ってくれているの。私が落ち込んでいたりすると、‘ママは女の子なんだから泣いてもいいよ。でもママをいじめる奴は僕が殴ってやる。’って言ったりするの。」
遠くでもみるようにゆうきは優しい眼差しをホテルのロビーから見える木立の向こうにやった。
それから俺たちは翼の知っている海岸沿いのレストランで昼食をとることにした。
俺の車の後部座席で、日本の海を久々に見られたと言ってゆうきははしゃいでいた。
海を見ると俺は花火と17才のゆうきの浴衣姿を思い出してしまう。
あの頃のドキドキするようなときめきとは違う、鈍い痛みを伴ったこの胸の切ない思い。
でも、その思いが向かう先はやはり君しかいないと、その日俺はそのことに気づいてしまった。
そんなことを知るはずもないゆうきは翼とふたり、昔話をしては屈託のない笑顔を見せて、そんなふたりの会話に俺はひとり参加できずにいた。
海はそろそろ日も落ちはじめ夕凪の様子を呈していた。
俺たちもゆうきをホテルに送り届けて、帰ることにした。
ホテルの前に車を止めたとき、別れ際に彼女は振り向きこう言った。
「今日は翼くんだけでなく、秀明に逢えてよかった。それだけでも私が日本に帰国した意味があったわ。本当に今日は来てくれて有り難う。」
それだけ告げると彼女はきびすを返して、ホテルのピカピカに磨かれた回転ドアの中に消えていった。
帰りの車の中でも翼はよほど楽しかったのか上機嫌でしゃべり続けていた。
「でもほんとにお前、なんにも話さないから大変だったよ!たまに口を開いたら‘ああ。’とか‘うん’。とかしか言わないんだもの。でも、ゆうきはお前が来てくれたことだけで充分だったみたいだからよかったけれど・・・。」
6年前のゆうきの眩しい笑顔や胸を締め付けられるような泣き顔が、さっきまで会っていたゆうきの表情とダブるようにして運転している俺の頭の中に現れた。
それは次々と現れては消えてゆく景色のように浮かんでは消えていった。
そして別れ際に彼女は、まるで空白の月日を飛び越えるかのように俺のことを‘秀明’と呼んでくれた。
そのゆうきの言葉が冷え切っていた俺の心の片隅を少しだけ温かくした。



   翼くんと三人で会った二日後、顔合わせと称して私と秀明は都内の某レストランで映画の関係者を交えて会った。
私が明日にもイギリスに戻る都合もあり、それはメインキャストとスタッフとの極々数人での会食に留まった。
そして、私に子供がいるということもあり、撮影はそれから一ヶ月くらいあとのロンドンロケからスタートすることとなった。

 ロンドンでの撮影はもう二週間を迎えようとしていた。
あんなに気まずかった彼との関係がいざクランク・インともなると嘘のように役に入り込めていた。
ここが日本じゃないせいなのか、それともそれ以上の何かがあるのかは私にも分からなかった。
ただ実感しているのは秀明の俳優としての実力。
演技なんてほとんど初心者のわたしは戸惑うことが多くてただただ彼の表現力に引っ張られていた。
朝から晩まで撮影に明け暮れる毎日、家に戻る暇もなく結局シュウはいつものように友達の実家に預けて、私はロケ地の近くのホテルに日本人キャストと共に滞在を余儀なくされていた。
頭の中ではシュウにすまないと詫びながら、本当は胸が躍っていた。
一日中彼の側にいられる・・・この罪の意識と表裏一体の喜びをひそかに感じていた。
そんな時だったあの人が彼を追ってこの地にやって来たのは。

 午前中の市場でのロケも終わり、ホテルに戻って遅いランチをとっていた頃、彼女は秀明の前に現れた。
シックなスーツ姿の彼女‘一の瀬なみ’はそこに存在しているだけで華があり、わたしよりもむしろ彼女のほうが主演女優に似つかわしい存在であることを思い知らされた。
「お久しぶり。ゆうきさん・・・いえ、水村梨乃さん、私のこと覚えていらっしゃるかしら?」
「あ、ええ・・・もちろん。お久しぶりです。」
「秀明がお世話になっているみたいで。撮影順調のようですね。休暇が取れたので、彼の顔が見たくてとんできちゃったの。おじゃまだったらごめんなさい。どうぞ、私のことなど気にせずによい作品にしてくださいね。」
そう言うと彼女は初対面の時と同様に余裕の微笑みを私に投げかけてきた。
秀明はなみさんに気づくと一瞬、表情が曇ったように私には見えた。
そして、彼女に近づくと彼女の腕を取って人目につかない奥のカウンターの席に座った。
私は気にも留めない振りをひたすらに続けていたが、スタッフと談笑しながらもふたりの席のほうへ神経が集中していた。
彼女のはしゃいでいるような甲高い声に混ざって時折、秀明の低い話し声が聞こえてきたが、話の内容までは分からなかった。
ただ、そんなふうに二人の会話が気になって仕方ない自分に嫌気が差していた。
そして、再び悲しい現実に引き戻される思いだった。

 それから再び駅周辺でのロケがスタートしたが、午後の私ときたら情けないくらいにボロボロだった。
NG連発で彼にもほかのキャストにも迷惑のかけっぱなしだった。
そんなときでも秀明は優しかった。
見かねて監督が休憩をとってくれ、秀明はただ黙って私に熱いミルクティーのカップを差し出してくれた。
昔からそう彼はどこまでも優しくて、私はその優しさに包まれて幸せだったはずなのに・・・どうしてなのだろう?
彼を振り切ってこの土地に来てしまった。
そして、ふたりの人生はすれ違ってしまった。
一瞬こうしてお互いの道が交差したように見えたのに、やっぱりその先は別々になっていて、私はどこまで走ってもあなたにはたどり着くことは無いんだ。
なんとか気を取り直し、午後の撮影は進んだ。
私たちがホテルに到着したのは、23時を回っていた。私は熱いシャワーをあびてから親友のシルヴィーの実家に電話をした。
「もしもし・・・。」
電話に出たのはシルヴィーだった。
「こんなに遅くごめんなさい。シュウ元気にしているかしら?」
「撮影遅くまで大変みたいね。シュウのことなら大丈夫、心配しないで。時々、‘ママいつ帰れるのかな?’って聞くけれど、とっても元気にしているから。今日はかあさんに新しい絵本を買ってもらって一日中それに見入っていたわ。」
「いつもありがとう。あなたとあなたの家族には本当に感謝しているの。なんてお礼を言ったらいいのか分からないほど。」
「気にすること無いわよ。私たち姉妹みたいなものでしょう。当たり前のことをしているだけだもの。それより、怪我や病気をしないように気をつけてね。シュウと一緒にうまくいくことを願っているわ!それじゃ、おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
受話器を置いてからつい涙がでそうになったが何とか我慢した。
シュウも私のために頑張っているんだ。私がここでくじけるわけにはいかない。
いい仕事をすることが愛する息子に対する最大の報いだった。
時計の針はもう1時を指していた。
眠れない私はホテルのロビーの向こうのテラスに出てみた。
さほど大きいホテルではなかったが広いウッドデッキのテラスがあり、そこからはうっそうと緑の茂った景色と遥か向こうにテムズ河が見えた。 月の光を受けて河の表面がキラキラと輝いて見えた。
夏の終わりの気持ちのよい風を受けて、私はこの誰もいないテラスで無性に踊ってみたくなった。
そして、明日カセドラルの中で踊るシーンの予行練習のようにゆっくりとステップを踏んでみた。
そう、私は踊っているときが幸せ、何もかも忘れられる・・・いつもそうしてきた。
そしてきっとこれからも・・・。



 突然現れたなみの姿に俺は戸惑っていた。
今の俺の心の中にはもうゆうきの存在しかなかった。
でも、現実にはなみとの関係が重くのしかかっていた。
愛そうとしたけれど、なみは所詮俺の心の重い扉を開くことは無かった。
その扉を開く鍵はゆうきしか持っていない。
そのことに気づいているのに・・・。
なみは俺とゆうきの関係を薄々感じ取っているようだった。
今までどんな女の子と会っていても干渉しなかった彼女が今度だけは違っていた。

 撮影が終わって、ホテルの部屋につくとなみは俺の部屋のベッドでもうぐっすり眠っていた。
サイドテーブルには無数の吸殻の山と飲みかけのコーヒーがカップの底に残っていた。
帰りを待っていた様子が伺えたが、さすがに時差ぼけには勝てなかったようだ。
小さな明かりをつけて台本に目を通したが疲れているはずなのに不思議に眠る気にはなれなかった。
窓の外にはテムズ河の水面がキラキラと輝いて見えた。
その輝きに惹かれるように窓際に立ち、なにげなく下のほうに目線を移した。
テラスに誰かがいるようだった。
その白い影がゆうきのものだと確信したとき、俺は今回の役づくりでいつも持ち歩いているカメラを掴み、足はテラスへと向かっていた。

 テラスは思っていたよりもずいぶん広々としていた。
周りはうっそうとした林に囲まれていて月明かりだけが煌々としており、まるで別世界のように思えた。
ひとりステップを踏んでいるゆうきにカメラを向けファインダーを覗いた。
そういえば踊っている姿をビデオで撮りたいとゆうきに言ったことがあったが、彼女に恥ずかしいからと断られたことがあった。
俺は昔から彼女の踊っている姿が好きだった。
シャッターを切った瞬間、光ったフラッシュにゆうきは気がついた。
「朝は気がつかなかったけれど、こんな素敵なテラスがあるのね。」
ゆうきは白いワンピースのようなナイティの上に薄いカーディガンを羽織ったままの姿だった。
「お互いに眠れないみたいだね。そんな格好で寒くない?」
「それより抜け出してきちゃっていいの?なみさん、心配していない?」
「時差ボケがきつくて、ぐっすり眠っているよ。」
「でも可愛い人ね。あなたのことこんなところまで追いかけてくるなんて、よほどあなたを愛しているんだわ。」
「そうかな?でもさ、そういうのって、時として重く感じることがあるものだよ。」
「私はそうは思わない。愛しているなら恋人がどこへ行こうと追いかけることぐらい当然じゃない?・・・ごめん。深い意味はないの。ただ、一般論を言っただけだから。」
ゆうきは言葉を濁した。
「俺と君は一般的じゃなかったかな?」
「一般的ではなかったかもね。少なくても、あの頃の私は普通ではなかったもの。」
そう言って彼女は淋しそうに微笑んで見せた。
「あいつ、なみは俺とゆうきの関係を疑っているんだよ。」
「じゃあ、早く安心させてあげて。ただの友達で今は共演者だって。私たち、これからはきっといい友達になれそうね・・・。」
白い小さな薔薇はその細く鋭い棘を俺の胸に突き刺した。
ほんのかすり傷程度にしか見えないその傷は、焼け付くような痛みを残して、その痛みはその後俺を何度も苦しめることになるのだろうと予感させた。
それからしばらくふたりは黙ったままテムズ河の水面のきらめきを見つめていた。
重い空気を押しやるかのように、ゆうきは歌を口ずさみ始めた。
「歌っているとき、そして踊っているときは何も考えなくていいからそれが本当の私かもしれない。ねえ、この歌知っている?」
ゆうきはそう言って、モンローのようなウィスパーボイスで口ずさみ始めた。
ジャズのような旋律のそのなつかしい歌はいつだったかゆうきが口ずさんでいたものだった。


チャイナタウンに
忍び逢う
ジゴロと踊り子
抱いてあげましょ
おかしな夢だけど

ジャスミンホテルの
上に咲く
ハネムーン気取りの満月
抱いてあげましょ
おかしな夢だけど

フランスたばこ
真珠のコンパクト
恋のリボンは
結ばないけれど
離れられないわ
あなたと私
いつまで続くかしら
おかしな夢・・・


長い手足が月明かりの下をゆっくりと舞い、それは俺に近づいては離れた。
まるでふたりの心みたいに。
そして再び近づいたとき、俺はゆうきの腕を無意識に掴んでいた。
逃れようと背中を向ける彼女を後ろから抱きしめていた。
固まったようにじっと動かないゆうきを抱きしめ首筋に顔をうずめた。
「しばらくのあいだ、このままでいて・・・」
そう彼女に囁いていた。


つづく


                             

[top]