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第11章
2004年1月
有羽 作


11月ももうあとわずかになってしまった。
来年早々にミュージカルの公演が決まっていた俺は、本格的に忙しくなっていった。
三日後には真珠(まじゅ)の最後の舞台の幕が上がる。
新宿にある小さい小屋だったが、そこそこのキャパシティがあって、客席との距離感も丁度よい感じの劇場だった。

忙しい俺は楽日にやっと足を運べる事になった。
前日の深夜、真珠(まじゅ)にそのことを告げると彼女はとても喜んでくれた。
「女優としての私の最後の仕事を秀明に見届けてもらうなんて、凄く嬉しい。これでもうなにも未練はないわ。」
真珠(まじゅ)の声は元気だった。

そして、とうとう真珠(まじゅ)の楽日の舞台の幕が上がった。
俺は前の仕事が押していたが、なんとかぎりぎりに開演に間に合った。
真珠(まじゅ)は器用な役者ではなかった。
でもそれを自分でよく分かっているからか、誰よりも神経は過敏で、自分で納得できない芝居は決してしなかった。
だから、いつかのようにNGを出してしまうこともしばしばあった。

ラスト・シーンは真珠(まじゅ)が演じていた少女のセリフだった。
ライトが落ちて、真っ暗な舞台の上で彼女の悲しげな声が響く。
「おーい、おーい…」
幕開けの牢獄に入れられた男の
「おーい、救けてくれ」というセリフと、どうやらリンクしているらしい。

真珠(まじゅ)演じる少女は暗闇に向かって必死で叫び続ける。
「おーい、おーい…」
たったそれだけのセリフなのに彼女の思いが凝縮されているようで、胸をかき乱されるように切なかった。
客席のいたる所から、すすり泣くような声が聞こえた。

俺は深夜の公園で俺の胸に顔を埋めて、声を殺して泣いていた彼女を思いだしていた。
真珠(まじゅ)があの夜、突拍子もない行動をとったのは、本当は俺に向かって救けを求めていたんだ。
“おーい、おーい…”って、きっと彼女が演じていたあの少女みたいに。
俺は涙がこぼれ落ちそうになるのを必死でこらえていた。

舞台がはねたあと、楽屋を訪ねようと裏口から入ると、誰かが俺の腕を引っ張った。
振り向くと、 以前ドラマのスタジオに俺を訪ねてきて“井上 アキラ”と名のった、あの青年が立っていた。

「いつかは…失礼な口をきいてすみませんでした。俺、あの時かなり取り乱していたから…。真珠(まじゅ)が今日を最後にもう芝居をやめるって打ち明けた時、俺、あいつのことを理解してやれなかったんだ。でも、最近の真珠(まじゅ)を見ていて、少しだけあいつの気持ちが分かるような気がした。髪を短くしてからの真珠(まじゅ)は、以前とは何かが違うように見えた。それをあいつに言ったら、あんたのおかげだってあいつは言ったんだ。だから…俺からもお願いします。最後まであいつの支えになってやって下さい。俺が真珠(まじゅ)にしてやれる事は、もうこんなことしかないから…だから、お願いします…。」
そう言うと、彼は俺に向かって深ぶかと頭を下げた。

「もう、やめてください。正直に言います。俺は本当は凄く怖いんです。真珠(まじゅ)のことを愛するほどに、彼女の存在がいつ俺の目の前から消えてしまうのかと思うと、本当は気が狂いそうなんです。そんな俺を気遣っているのはむしろ彼女のほうなんだ。」

そんな俺達の話し声に気づいて、楽屋の中から真珠(まじゅ)が出てきた。
「あれ、ふたりは顔見知りだっけ?」
「いや、今、楽屋の場所を聞いていて君の話しになったんだ。」
慌てて俺がそう言うと、彼女は
「どうせ、どちらも悪口しかいわないんでしょう?」
と言って笑った。
どうやら、話しの内容までは聞こえなかったみたいだった。

「秀明、ごめんね…まだこれからセットのバラシがあるから、一緒に帰れない。」
真珠(まじゅ)がそう俺に言うと、井上君がすかさず言った。
「お前はいいよ。お前一人いなくてもどうってことないし、余計な体力は使うな。先に帰れよ。」
「ありがとう。アキラ…また、あらためて連絡するね。今日まで本当にありがとう。打ち上げには残念だけれど出られないから、みんなにもよろしく言っておいてね。みんなと芝居が出来てよかったって。」
「分かった。じゃあな!」
井上君はたぶん真珠(まじゅ)との別れが辛かったんだろう。
それだけ言うと振り向きもせず、舞台の方へ去っていった。

「彼、いい人だね。きっと、真珠(まじゅ)のことが好きなんだね。気づいてた?」
「アキラは私の東京での兄貴的な存在だから…私はいつも妹でいたいの。」
彼女は井上君の後ろ姿を見送りながら、しんみりとした口調でそう答えた。

彼には彼だけがよく知っている真珠(まじゅ)がいて、俺もみた事の無いような真珠(まじゅ)の顔を彼は知っているんだ。
そして、俺の中には俺だけが知っている真珠(まじゅ)がいる。
笑顔や、泣き顔、強がった時の顔も、淋しいっていった時の顔も全部が俺だけの君なんだ。
君は芝居をすることよりも、俺を選んだ。
でもね、真珠(まじゅ)…俺は君をとても愛しているけれど…これからやってくる別れをどうやって受け止めていいのか分からない。
その逃れる事の出来ない一瞬は、秋が来てやがて冬が訪れるように、通りの信号が赤から青に変わるように、時間の流れと共にさりげなく、でも確実にやってくる。
涙を見せたあの日以来、君はなんだか強くなったみたいだ。
そして、強がりな俺は…君を最後まで男らしく支えていられるんだろうか?

真珠(まじゅ)の芝居が終わった二日後から、俺は何とか三日間の休みをもらった。
ふたりだけで何処でもいいから旅に出ようと約束していた。
あまり遠出は出来ないが、長野に知合いのコテージがあって、そこへ行こうと決めていた。
ところが前日の昼過ぎに、真珠(まじゅ)から‘行けなくなった’と留守番電話に連絡が入った。

打ち合わせを終えた俺は、理由を知るために真珠(まじゅ)に電話をした。
彼女はすぐに電話に出た。
‘昨夜、あなたと別れたあと家で軽い発作がおきたの。それで今朝、病院に行ったらすぐにでも入院したほうがいいって言われて…実家に戻りたい事を先生に相談したら、実家の近くの大学病院に連絡してくれて、明日から入院することになったの。楽しみにしていたのに、こんなことになってしまって…ごめんね。無理に休みまで取ってくれたのに…。’

彼女だってがっかりした筈なのに、何度も‘ごめんね’って電話口で謝った。
‘いいよ。元気になったら、行こう。’
そう何気なく言った俺の言葉に…彼女が返事をすることはなかった。
きっともう二度と病院から外へは出られないことを知っていたんだ。

翌日の朝、俺は真珠(まじゅ)のマンションに出向き、彼女を山梨の病院まで送った。
病院には彼女のお母さんも来ていた。
凄く照れくさかったけれど、お母さんは真珠(まじゅ)から手紙で俺のことを聞かされているようで、ふたりの関係は知っているようだった。
真珠(まじゅ)とどことなく似ているが、勝ち気な彼女とは違って物腰の柔らかい女性だ。

俺はその日、面会時間が終わるまでずっと真珠(まじゅ)の側にいた。
「旅行には行けなくなったけれど、長い時間一緒にいれたから嬉しい。」
と彼女は笑った。
「あと二日間休みがあるから、毎日病院に通うからさ。」
「そんなことしていたら駄目よ。あなたにはやらなければいけないことがあるはずでしょ。今日一緒にいられたんだし、私は大丈夫。私は仕事をしているときの輝いている秀明が好きなんだよ。時間が出来た時に顔をみられたら充分だよ。離れていたってお互いを思う気持ちを信じていられればそれでいいの。そう思うでしょ?」
真珠(まじゅ)は優しく諭すように俺にそう言った。

帰りの車の中で、俺はなんだか気持ちが沈んでいた。
真珠(まじゅ)、もしも…もしも君がいなくなってしまったら…残された愛は何処へ行ったらいいんだろう。
君は知っているんだろう?
知っているのなら、もったいぶっていないで俺に教えてくれないか。
俺は次に君に会える時まで、不安な気持ちと戦いながら日々を過ごしていかなきゃならない。

真珠(まじゅ)…君はまるであの夜、池の中に映っていた月のようだね。
手をさしのべたとたん壊れて消えてしまう、もうひとつの月みたいだ。





つづく



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